ペテロがイエスを知らないと言う

マルコによる福音書14章66~72節

4:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

今、私達はイエス様が十字架に向かって精神的(せいしんてき)、肉体的な苦しみを受けるという大変つらい場面を読んでいます。このイエス様の苦しみのことをキリスト教では“受難(じゅなん)”とよんでいます。伝統的(でんとうてき)な西方キリスト教会では、ちょうど2月17日から受難(じゅなん)節と呼ばれる期間に入りました。受難(じゅなん)(せつ)は、イエス様が十字架にかけられる前の約40日間で、イエス様の苦しみを思って、節制(せっせい)して過ごす期間となっています。イエス様の苦しみを少しでも味わうため、好きなものを我慢したり、断食(だんじき)したりといったことが行われるようです。

さて、イエス様はこの受難(じゅなん)にあわれるまで、つまり祭司長達に捕らえられるまでは、無敵(むてき)なスーパーマンのようでした。それまでのイエス様の活動は、病人を(いや)すだけでなく、死人を(よみがえ)らせたり、嵐を静めるといった奇跡(きせき)も起こしました。そして、律法(りっぽう)学者(がくしゃ)達との論争(ろんそう)でも、相手にぐうの()も出させませんでした。その無敵(むてき)なイエス様が、受難(じゅなん)にあたっては、まったくの無抵抗(むていこう)で、されるがままな様子で十字架へと向かわれます。そんなイエス様に対する、一番弟子のペテロの反応を今日は見ていきたいと思います。

前回のイエス様の裁判(さいばん)のお話しには、イエス様がつかまった時には逃げてしまったペテロが、その後、遠くから後をつけていって、裁判(さいばん)の行われている大祭司(だいさいし)の庭に入って、役人たちと一緒にすわっていたことが、書かれていました。そのペテロに大祭司(だいさいし)の女中の一人が、「あなたも、あのナザレ人、イエスといっしょにいましたね。」と話しかけます。この時はおそらく、裁判(さいばん)でイエス様の有罪が確定(かくてい)し、イエス様がまるで(おろ)かな反逆者(はんぎゃくしゃ)のように、役人たちからいたぶられた後だったでしょう。もし、イエス様が今までのように、奇跡(きせき)的な力でこの難局(なんきょく)を乗り切ったならば、ペテロは勇んで「そうだ、我こそはナザレのイエスの一番弟子だ」と女中に答えたでしょう。しかし、今、目の前にいるのは、無力(むりょく)でみじめな犯罪人とされたイエス様でしかありません。その人を自分のリーダーだとは言えなくなっていたのです。もし、それを認めれば自分も裁判(さいばん)の席に立たされ、同じくひどい目に合わされるかもしれません。そこで、ペテロはその女中に「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」ととぼけた答えをします。そして、出口のほうへと出て行きました。不審(ふしん)な行動だと感じたのか、その女中は今度は(まわ)りの人達に「この人はあの人の仲間です」と言いだします。ペテロはあわてて「あんな(やつ)は知らない」とばかりに否定します。しかし、そう答えた時の話し方にガリラヤ訛りがあったので「確かに、あなたはあの人の仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」と言われてしまいます。すると、今度はペテロは(のろ)いをかけて(ちか)い始めたとあります。これは、もし自分が本当にイエス様の仲間であったなら、(のろ)われてもよいということでしょう。はじめに、女中から言われた時は、とっさに口をついて出た(うそ)だとしても、2回目はイエス様との関係をはっきりと否定し、3回目には、ついにはイエス様を神にかけて拒絶(きょぜつ)してしまったのです。

今日のところから一枚ページを前にめくると、「ペテロの否認(ひにん)の予告」という小見出(こみだ)しがあります。覚えている方もいらっしゃると思いますが、確かにイエス様は、先ほど読んだペテロの行いを予告していました。イエス様が、「あなたがたはみな、つまずきます。」と弟子たちにいいますと、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と自信満々(じしんまんまん)に答えます。するとイエス様に、「あなたは、きょう、今夜、(にわとり)が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」と言われてしまいます。そこで、ペテロは力を込めて「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張っていました。この自身(じしん)過剰(かじょう)なペテロの自尊(じそん)(しん)が打ち(くだ)かれたのが、今日の箇所(かしょ)であるといえるでしょう。この出来事が、記されている理由は、ただ単にこんな情けないペテロでさえも、イエス様の十字架によって、偉大(いだい)使徒(しと)聖人(せいじん)と呼ばれるまでに変えられたと言いたいためだけではないでしょう。むしろ、ペテロが偉大(いだい)使徒(しと)となる為にはこの挫折(ざせつ)こそが必要であったからなのです。このことがなければ、ペテロは「たとい、全部の者がつまづいても私はつまずきません。」と自信過剰(じしんかじょう)に言うような人間のままで、イエス様の言葉に耳を(かたむ)けることなく、何事も自分の判断(はんだん)を第一として行動したでしょう。そして、イエス様が十字架で身代わりの死を()げても、何のありがたみも感じることができなかったかもしれません。つまり、自分の罪に対する自覚(じかく)がなければ、罪からの救いの必要が分からないのです。

このペテロと同じように、神様を信じていると言っている人でも、自分に罪があるという自覚(じかく)がなければ、罪が(ゆる)される必要を感じません。そして、それは、罪の(ゆる)しを与える神様も必要ないということになってしまいます。その結果、神様を(たよ)らず、何事も自分の力、自分の考えで決めたり解決(かいけつ)しようとして、失敗(しっぱい)してしまうということが、よくあります。

ですから、今日の話のペテロのように失敗(しっぱい)によって、自分の罪が明らかにされることは、神様を信じる上でとても大切なことなのです。

この経験(けいけん)から、ペテロはイエス様の言っていたことに対し、よりへりくだって耳を(かたむ)けるようになりました。そして、キリスト教会で尊敬(そんけい)されるリーダーへと変えられていったのです。

ヘブル12:11に「すべての()らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練(くんれん)された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。

神様は愛する私達のために、すべてのことを(はたら)かせて(えき)としてくださる”ということをおぼえて、さらに神に祈り求めるものへと変えられてまいりましょう。

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