ゲッセマネの祈り

マルコ14章32節

32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

イエス様はこれまで、ご自分の最後について、何度か予告をされてきました。イエス様のことを疎ましく思っていた、祭司長や律法学者達に捕らえられ、死刑に定められ、異邦人に渡される。それから、あざけられ、つばきをかけられ、むち打たれ、殺される。しかし、3日後によみがえるといったことです。

今日の箇所は、この予告が現実となる直前の祈りの場面です。

イエス様と十二弟子は“最後の晩餐”と呼ばれる食事の後、オリーブ山へ向かいました。そのオリーブ山のゲッセマネという所でお祈りをされます。これまでもイエス様はお祈りをされてきましたが、その時は一人で寂しいところへ行ってされていました。しかし、今回はお弟子たちを伴って、「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。(32節)」とおっしゃり、さらに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていき、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。(34節)」とまるで、子どもが一人では寝られないから、親に一緒にいることを願うように、弟子たちにそばにいるいることを求めておられます。

なぜ、イエス様がこれまでのようにお一人では祈らず、弱気になったようにさえ見えるのかということですが、これが、身代わりとしてではありますが、神の刑罰の始まりであるからです。これまでイエス様の祈りに、いつも答えて下さっていた神様は、もうお答えにならないのです。

わたしたちは、救い主に毅然とした態度で、身代わりとしての神の罰を受けることを期待してしまうかもしれません。確かに、迫害にあって殺されるクリスチャン達の話を聞くと、むしろ潔い態度で死を受け入れているように感じられます。しかし、イエス様の死はそれとは違うものです。神の刑罰としての死は、完全に神から見放されることであるからです。この神から見放される悲しみに加え、イエス様がこれから受けられる精神的、肉体的苦しみは、文字通り想像を絶するものでした。イエス様の受けられた十字架刑は、あまりにも残虐なためローマ帝国でも反逆者のみが受け、ローマ市民権を持つものは免除されていた最も重い刑罰でした。

そのような状況にあっても、イエス様は神様を信頼し祈られています。

36節「アバ、父よ」と呼びかけています。“アバ”とは乳幼児が父親への親しみと尊敬をもって呼びかける時の言葉で“お父ちゃん”と言った感じでしょうか。そして、「あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」

ここでは、私達が神様に祈るときの模範が示されています。そもそもご自身も神であるイエス様が、神様に助けを求めることはおかしいと思われるかもしれませんが、イエス様は神でありながら、人間でもありました。そうでなければ、身代わりになれないからです。人間であるということは、肉体を持っているということです。イエス様は神様を完全に信頼していましたから罪は犯されませんでした。しかし、私たちと同じようにこの世的に必要なことは神様に求めなければなりませんでした。神様に肉体的、あるいは経済的必要を祈る場合、今回のイエス様のお祈りのように、「(もし神様の)御心ならば、○○して下さい」と祈ります。それが、必ずしも最善(=御心)であるか分からないからです。

イエス様がお祈りを終えて、お弟子のところへ戻ってみると、お弟子たちは眠ってしまっていました。イエス様に「悲しみのあまり死ぬほどです」と言われたので、これから大変なことが起こることは分かっていたでしょうが、イエス様が「心は燃えていても、肉体は弱いのです(38節)」と言われているとおり、お弟子たちも心身ともに疲れ果てていたことでしょう。イエス様はこのような祈りを3回なさって、また眠っている弟子たちに「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪びとたちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」とおっしゃいます。

裏切る者とは、過ぎ越しの食事で予告していたユダのことです。ユダが祭司長や律法学者達に差し向けられた者たちと共にイエス様を捕らえにやってきます。

このようにして、イエス様の受難が始まったわけです。

今日のところでは、避けられないと分かっていても、人類救済のために身代わりとなって受ける神の罰があまりにも恐ろしいため、神様にやめることはできないかと素直な気持ちを伝えて祈ったイエス様。それが、無理であると分かった後は、神の力に頼らずにその恐ろしい罰をたった一人で耐え忍ばれました。これを成したのは、ただ私達のため、私達を救いたいと思う愛ゆえであったということを覚えたいと思います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)」神様は私達が喜ぶことを望んでおられるのです。

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