ペテロの否認の予告

過越しの食事を終えて、イエス様と12弟子がオリーブ山へ向かう途中、イエス様はお弟子たちに、再び衝撃の予告をなさいます。「あなたがたはみな、つまづく」というのです。今しがた終えたばかりの、過越しの食事の時にも「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」と言われ、皆に動揺を与えましたが、この時は裏切ると言われたのは一人だけでした。

しかし、今回は「みな、つまづく」のですから全員があてはまります。

ただし、今度は「つまづく」のであって「裏切る」のではありません。

「裏切る」というのは意識的に仲間を捨てて相手に寝返ったりすることであるのに対し、「つまづく」とは前に向かって進んでいる時に無意識に石ころなど、思いがけないものに当たって転んだりすることですから、わざとではありません。

ですから、ユダの裏切りのように、わざわざイエス様を敵に明け渡したりするのではないけれども、残りのお弟子たちも、これから目の前で起こることによって、イエス様に従ってついていくことができなくなるということを、予告しているのです。

そして、その理由としては、『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と聖書に預言されているからだとおっしゃっています。

それを聞いたペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」とイエス様に忠誠を誓います。イエス様が、自分達を試していると思ったのでしょう。しかし、イエス様はそんなペテロにさらにはっきりとおっしゃっています。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」イエス様を知らないと公言する、この行為は、もはや裏切りに近いわけです。イエス様が気の毒に思って、「つまずく」としか言わなかったのを、ペテロは「実はあなたも裏切る」ということを言わせてしまった感じです。

そのように言われたペテロは動揺をあらわにして「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決してもうしません。」と力を込めて言い張ります。これは、ペテロだけの思いではなく、他の皆もそう言っていました。この時のお弟子たちの気持ちを思うと「まったく、自信過剰なんだから」などと簡単に言えるものではありません。もともと彼らの願いは、救い主のもと、国を復興させることなのですから、戦争を起こす心づもりがあり、死ぬことも覚悟していたわけです。そして、この方こそ救い主だと確信の持てるイエス様に出会って、この人につき従って行こうと意を決していました。ところが、これからという時になって、イエス様がご自分はこれから、人々に引き渡され殺されるなどと言いだし始められる。この方が救い主であるという確信はあるが、イエス様が殺されてしまったらどうなるのか、自分達はどうすればよいのか、といった先が全く見えない状態であったでしょう。

しかし、実はそんな中にも、希望はありました。今日お読みしたところの始めの部分で、イエス様がつまずきの予告に続いて、「しかし、わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」とおっしゃっています。この意味を理解するため、皆がつまずく理由としてあげていた聖書箇所の全文を読んでみます。

「全能の主は言います。『剣よ、目を覚まして、わたしの仲間、わたしの同僚である牧者に切りかかれ。その牧者を打ち倒せ。そうすれば、羊は散り散りになる。しかし、わたしは戻ってきて、子羊を慰め、世話をする。』」(ゼカリヤ書13:7)

この文の最後のところには「しかし、わたしは戻ってきて、子羊を慰め、世話をする」とあります。ですから、イエス様のおっしゃっていた「よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行く」理由は、つまずいてしまったお弟子たちを慰めて、世話をする為であると分かります。

ですから、イエス様がつまずきの予告をしたのは、弟子たちをいたずらに驚かせるためではなく、「あなたたちは、これから起こることにつまずいてしまうけれども、そのあと慰めを与え、お世話もするから心配しないで立ち直りなさい。」ということが言いたかったのです。

そして、このことはイエス様に従う時の、ひとつのパターンでもあります。「羊が散らされる」とは試練を意味します。すると、私達は少なからずつまずきます。しかし、そこで神様を求めることで慰めと導きをいただくことが出来るというものです。

ここで神様は私たちに祈ることを求めています。なぜなら、祈りは交わりであるからです。私達が誰かと話をしたり、一緒に過ごしたりしたいのと同じように、神様も私たちと祈りを通して交わりたいと思っておられます。そしてその中で、祝福を与えたいと思っておられます。イエス様は、その神様と人との交わりを回復するために、人となって生まれてくださった神様ご自身です。そのイエス様に習い、少しでも隣人を愛し受け入れることができるよう祈り求めてまいりましょう。

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