前回は過越しの食事の準備をする話でした。今日はいよいよその食事の場面です。では、さっそく読んでみましょう。
夕方、イエス様は12人のお弟子を連れて、前回のお話にあった2階の広間に来られます。そして過越しの特別な食事をされます。そして
その席上でお弟子たちに衝撃を与えるお話をされます。18節「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」これを聞いて、びっくりした身に覚えのないお弟子たちは、「まさか私ではないでしょう」と不安になってつぎつぎにイエス様に尋ねます。イエス様は「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。」(20節)とおっしゃいます。
過ぎ越しの食事はその食事の内容や手順が決まっていて、エジプトでの奴隷生活からいかにして神様が救い出してくれたかを子々孫々へと伝えられるようになっています。ここに出て来る鉢といいますのは、りんごをすったものとナッツを混ぜ合わせたもので、これは、イスラエル民族がエジプトで奴隷として苦役を強いられていたときに運んだ、レンガのモルタルを思い出すためのものだそうです。その鉢に種の入っていない平たいパンを浸してそれを相手に渡して食べさせたりするそうですが、これは相手への友情を示すものだということです。
ヨハネの福音書(13:21-26)によると、イエス様はユダにこのパンを渡して、裏切るものが誰であるかをヨハネに知らせていますが、他のお弟子たちは、誰なのか分からなかったと書かれています。
ですから、イエス様はこの時、誰が裏切者であるかを皆の前で公表して、その人に罰を与えようとされたのではありません。イエス様が彼の裏切りを知っていることを伝えることで、それをやめさせたいと思っておられたのでしょう。ですから、続けてこのようにおっしゃいます。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去っていきます。」これは旧約聖書の詩篇41:9に「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」と書かれていることを言っておられます。そして「しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と言われます。これは、強い非難ですが、この「生まれなかったほうがよかった」という言い方は聖書の他の箇所でも出てきます。
涙の預言者と言われるエレミヤが、ユダヤの民に神に立ち返ることをいくら語っても聞き入れられず、かえってエレミヤを迫害するという状況を憂えて「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、父に良い知らせをもたらし、あなたに男の子が生まれたと言って、大いに喜ばせた人は」と言っていたり、
また、ヨブ記という所にも不当な災難にあったヨブが、そのつらさに耐えかねて自分の生まれた日を呪って
「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。」と言ったと書かれています。ですから、「生まれなかったほうがよかった」と言う言葉は、その人の状況がこの上なく悪いものであるということをいう時に使われるわけです。
イエス様が、ユダに対しこのようにおっしゃったのも、神の子を裏切るというこの上もない重い罪を犯すことを思いとどまらせるためであり、もしそれをやめることができないとしても、イエス様がそのことを知っていたことを思い出して、後で悔い改めることをしてほしいと思われたからだと考えられます。
どのような罪も許される。この地上において命のある間に、そのことを悔いて、神様に告白することができればです。そして、赦されたならば、今度は自分に罪を犯した人を赦すことが出来るようになります。そしてそこから、めぐみの和が広がっていくのです。


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