議会の前でのイエス

前回は、イエス様が祭司長や律法学者達に()らえられ、弟子たちからも見捨てられるという、イエス様ご自身の予告と旧約聖書の預言(よげん)どおりのことがイエス様の身に起こったという話でした。今日のところでは、捕らえられたイエス様が裁判(さいばん)にかけられる様子が(えが)かれています。

捕らえられたイエス様は、大祭司の所へ連れて行かれます。

すると、あらかじめ呼びかけをしてあったであろう、祭司長、長老、律法学者たちが集まってきました。この人々は、ユダヤ人の議会のメンバーで、その集まりは最高法院(さいこうほういん)と呼ばれていました。国会と裁判所をあわせたような最高の政治的決定機関です。

イエス様を罪に定めるために招集されたわけですが、この裁判が行われた時間が異常でした。読み進めていくと分かるのですが、この裁判は、イエス様を捕らえた直後の真夜中のうちに行われています。彼らの恐れていた民衆の眠っているうちに、イエス様を罪に定めてしまいたかったのでしょう。54節を見ると、そこにはさきほどイエス様を捨てて逃げた一番弟子のペテロが戻ってきて、人々に紛れて裁判の行われている大祭司の庭の中まで入って来ていました。この裁判の詳しい様子が伝えられたのは、このペテロの証言があったためと、議員の中にもイエス様を信じていた人たちがいたためであると思われます。

55節には裁判の状況(じょうきょう)がこのように書かれています「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。」この裁判が有罪か無罪かを判定するものではなく、始めから有罪にするためのものであったことが分かります。ただ有罪なだけでなく、イエス様を死刑にしようとしていました。その場合、ユダヤ人の律法には死刑にするためには二人以上の証人が必要であるとされていたので「イエス様に対する偽証をする者」を多数呼んでいました。しかし、証言が一致しなかったので証拠を見つけることが出来ずに祭司長達は困っていたのです。

そもそも“偽証(ぎしょう)”はモーセの十戒に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」とありますので、明らかな罪です。それを宗教指導者が堂々と違反していたわけです。これもおかしな話です。そして、そうまでしても、イエス様を訴えるための証拠は見つかりませんでした。

57節では「すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。「わたしたちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」この偽証(ぎしょう)は、この裁判での中心的な証拠としたかったものと思われます。神殿を(こわ)すことは神への冒涜(ぼうとく)であり、神への冒涜の罪は、モーセの律法で死刑に定められているからです。「主の名を汚すものは必ず殺されるであろう。全会衆(ぜんかいしゅう)は必ず彼を石で()たなければならない(レビ24:16)」

イエス様は確かに似たようなことをおっしゃったとヨハネの福音書(ふくいんしょ)には記されています。それは「この神殿(しんでん)をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」というものですが、イエス様はご自分が神殿をこわすとは言っておられず、その意味も違っていました。神殿はご自身のことであり、殺されても三日目に復活するということをおっしゃられていたのです。それで59節にあるように「しかし、この点でも証言は一致しなかった」のでした。事が思うように運ばないことに、(あせ)りを感じた大祭司は60節「立ち上がり、真ん中に進み出て」イエス様に直接質問します。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利(ふり)な証言をしていますが、これはどうなのですか。」イエス様はこの大祭司の言うように、この不正だらけの裁判の間、一言も話されませんでした。それは、死刑をまぬかれようとは考えておらず、むしろ自ら十字架へと向かわれていたからです。61節「しかし、イエスは(だま)ったままで、何もお答えにならなかった。」そこで(ごう)()やした大祭司は、イエス様にこのように聞きます。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」ユダヤ人は神様と言う言葉を使うことを(おそ)れていたので、神様のことを“ほむべき方”と言いかえています。すると、イエス様は初めて口を開き「わたしは、それです。」とはっきりとご自分がキリストであることを認めます。そして「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲の乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」とユダヤ人の信じている旧約聖書のキリストについての預言を引用(いんよう)して、答えられます。

しかし大祭司は、イエス様に対する嫉妬(しっと)(しん)から、イエス様をキリストとして受け入れることができず、「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。」と議会に告げます。そして、この(うそ)(いつわ)りのないイエス様の答えによって、イエス様は死刑に定められます。このようにして、罪なき者が、全人類の罪のために身代わりとなったのです。

イエス様が、死刑判決を受けると、まわりの人々はあからさまにイエス様を侮辱(ぶじょく)し始めます。その内容は65節「つばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当ててみろ』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」といったもので、子どもたちのいじめとかわりありません。憎しみを持った者は、どこまでも残酷(ざんこく)になれます。イエス様は自ら、その被害者となり、虐待(ぎゃくたい)を受ける者の悲しみを体験されました。ですから、この世で(しいた)げられている者を決して見捨てず、(あわ)れんで、助けてくださいます。ですから誰にも理解されず、独りぼっちだと感じる時は、神様に祈りましょう。かならず聞いていてくださり、(なぐさ)めをいただくことができます。

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